実際のところ、私はすごく小心者なのかもしれない。
人の機嫌を損ねてしまう事が何よりも怖いから、軋轢(あつれき)を生むような発言はしてこなかったし、
「今日はいい天気ですね」だとか、表面的な付き合いをする人の方が多かった。
現に、社会人になった今でも、正直どうでもいい人とどうでもいい世間話をするときは、
未だに楽しそうに天気の話をできてしまう自分がある意味情けない。
人の心の内を知りたいとなかなか思えないのは、
裏を返せば自分の心の内を知られたくないからなのかもしれない。
たまに、「この人なかなか心を開いてくれないな」と思うことがあるのだけれど、
それは当たり前の話だったりするよね。
だって自分が心を開いていないのだから。
相手にとってみれば、”心を開いてくれないコイツ”にわざわざ心を開く筋合いはないのだ。
お互いにそう思っているのであれば、なおさらそうだろうな。
私がなかなか心を開けない原因の一つとして自覚しているのが、
自己肯定感が低い、から。
人から認められないから、自己肯定感が低い、というのは意味が違う。
それは承認欲求の不満足であって、自己肯定感の低さではないと思う。
私が、自己肯定感が低い、と感じてしまうのは、断じて承認欲求が満たされないからではない。
もっとしっかり、自己肯定感が低いんです。威張ることじゃあないぜ。
自己肯定感が低い原因は、多分、できないことが多いからだと思う。
サボり癖とでも言うべきなのか、サボり癖よりも深刻な気がするのだけれど、
ひとたび、行動力低下ゾーン(今命名した)に入ると、
あらゆることができなくなりがちになってしまう。
例えば、お腹がすいたからご飯を食べたいけど、何を食べたいのか決められず、結果何も食べずに一日を終えてしまう、みたいなこともある。
空腹”という状況に否応なく置かれてしまったときに、
思考が渋滞して焦りが発生して、結果何もできなかった、ということを例えたんだけど、
気持ちが分かる人、いるでしょうか。
もっとわかりやすい例として、眠れない、という出来事もあるね。
もう2時だしそろそろ寝なくちゃいけない、と思うと眠れず、
3時になってしまったのに未だに起きているのはどうしてだ、今すぐにでも寝た方が良いはずなのにどうして寝ていないんだどうしようと悩み、
結果4時5時を過ぎてチュンチュンと小鳥が鳴き始めてしまったので仕方なくそのまま一日を開始する、というもの。
よくないですか?ありますよね。
寝なきゃいけないという焦りが眠りを妨げるというパラドックス。
こういう、考えた末に何も選べなくなってしまう現象が、こと私の生活において言えば
そこそこ頻繁に起こり、そのたびに私は私の自己肯定感を下げてしまう。
ひとたび外に出て、買い物をしようものなら、
一日中歩き回ってあれやこれやと行動するパワーはあるのに、
その落差が本当に激しい。
何もしないときと何でもするときが極端に存在するので、
より一層、何もできないときに自己肯定感を下げてしまう。
実は、
この間まで放送されていた「テッパチ!」というドラマで、
自己肯定感の低い元プログラマーが意を決して自衛官に転身した話をする回があったんだけど、
「俺にはできることが何もない…」
っつってめそめそ泣いちゃうシーンがあったんだけど、
なんていうか自分の内面を見ている気がしてとても悲しくなったことがあった。
過去に「テッパチ!」について小馬鹿にするブログを書いたのに、
ヒューマンドラマには感動しないと思っていたのに、
泣きそうになったことはとても不覚で、今でも思い返せるほど印象に残った。
というか、これは感動とかそういうことじゃなくて、
そこはかとない共感から、「わかるぜ…辛いよね…」
となったので、感動ではないんだろうと思う。
こんな"何もできない自分"だってことが、人にバレるのが怖いから、恥ずかしいから、私は心を開けずにいたのかもしれないなと思う。
未だに自分主催で何かする、っていうことが、少し苦手。
自己肯定感の低下は、
結局できることを増やしていくことで対策するしかないんだと思う。
なので、というか、本当に情けない話なんだけど、
生活しているうちに、自然と、最近は自己肯定感がすこしずつ上がってきたのを自覚している。
本来であれば、ちゃんと意識して改善するのがストレートなのに、この期に及んで私は成り行きで結果改善したよ、という状態。
とはいえ、何にせよ改善となったことは事実。
なぜかというと、結局のところ、強いられてきたからに他ならないと思う。
結婚して二人暮らしになって、私がご飯を作る日もあるんだけど、
普段だったら料理はおろか、食べるものを決められずに何も食べないこともあった私にとっては大きな変化だと思う。
これを私ができるのは、私が空腹を満たすためではなく、嫁の空腹を満たすために行動しないといけない状況に置かれ、強いられた結果行動に移したからできたんだ、という感覚。
そういう積み重ねで、今ではゴミもしっかり分別して捨てることもできるようになった。
自己肯定感が低かった私にとっては、ゴミの分別ができたこととか、
具体的に言えばペットボトルのラベルを剥がして中身を濯いでキャップと分けてスーパーに捨てに行くことができるようになったことは、
かつて可燃も不燃も乾電池もビンも全部まとめて可燃ゴミ袋にぶち込んでいた私にとっては、
コクーンがスピアーに進化したくらいの成長なのだ。
会社にも片道10kmを自転車で爆走しているおかげで、
行動力が爆発しがちになる。
夜中にドン・キホーテにウインドウショッピングしてもいいくらい。
田舎のヤンキーと一緒にしないで欲しいので、ここは断っておくが、
私はジャージを持っていない。学校のジャージなんてものも、持ち合わせていない。
海外に住んでいたから。結果、ジャージで出歩く人のことを恥ずかしいと思いながら見ることができるし、
そうでない私、という事実に私が助けられている節さえある。
私はドン・キホーテに行く時だって、しっかりジーンズを履くし、本気である。
絶対にシャッターチャンスはないのに、ライカを持ち歩く。相棒だから。
自転車通勤は、寄り道したいカフェとか家具屋とか雑貨屋とか、湧き出てくる行きたい場所とか、私の”したい”という欲求に対しての一歩目を軽くさせる。行動すれば、行動できたことが、自己肯定感の向上につながる。自転車通勤は、強いられてやっている。それなのにこれだけの恩恵がある。
これが習慣になったので、私がコクーンに戻ることは、環境が変わらない限りは、きっとない。
そういう、成り行きの自己肯定感向上にかまけて、今では
プログラムの勉強を自主的にやって、できることをどんどんと増やしている。
正直なことを言うと、
プログラミングというものは、
”こうしたい”と”できた”の距離がとても短いところにあると思っていて、
割と頻繁に達成感を得ることができることが、最大の魅力だと思っている。
自己肯定感の低い人にとっては、心からお勧めできる。
かつて私がうつ病になって床に臥せたところに、
「プログラミングやれば」と言ってきた友人P(何度も出てきているので割愛)が、
これを見越して私にプログラミングを勧めてきたとするならば、
とんでもないコンサルティングをかまされたのかもしれない。
あいにく、私はやりたいことが無限に沸いてくる性格?性質?を持っているので、
より一層「あれもできない、これもできない」状態に陥りやすかったのだけど、
その欲求の大部分を解決できるかもしれない手段とそのロマンを教えてくれたPには感謝したいし
スマブラでボコボコに負かしたいと思う。
意識改革をしたからどうだとか、成り行きだからどうだとかいうのは、私にはどうでもいい。
色んな出来事が相まって今の私が存在することだけが、真だと思う。
人生のイベントごとの積み重ねが今の私を象(かたど)っているのであれば、
意識改革じゃなくても、成り行きでも、いいじゃないか。
そう思うようにしている。
でも、もし私が高校生の頃、バスケ部の顧問に怒られて
「お前もういいよ帰れよ」
って言われたときに、
「あ、わかりましたー」
なんて言って真顔で本当に帰る度胸のひとつやふたつ持ち合わせていたなら
私の、「自己肯定感が低い」問題に対して、
強いられた結果改善した今の私よりも、
”自主的に”フットワークを軽く問題解決に踏み出せたのではないか、と、思うのだ。
帰宅部だったけど。