歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

涙は流れてないけど、今泣いているな。と感じる時。

 

最近これを感じることがちょくちょくある。

 

もう少し具体的に言うならば、形容しがたい感情になって「これってもしかしたら泣いているんじゃないのか?」と思うことがちょくちょくある。

例えば、ずっと降っていた雨の音が夜中気が付いたら止んでいた時。
例えば、綺麗な歌詞を歌う曲を聞いた時。
例えば、誰かが許される瞬間を見た時。
例えば、朝起きるとスズメの鳴き声が聞こえた時。

少なくとも、嫌悪する感情ではないことは確かにわかる。
これらの現象って絶対に今までもあったことなんだけど、
確実に数年前よりも多感になっている節があって、最近認識するようになった感じ。

泣きたいと思うわけではないし、悲しいわけでも切ないわけでもないと思う。
寧ろ嬉しいという感情が多分一番近い。

こと自分においては、学生時代のバンド活動の名残で性懲りもなく作詞作曲を続けていて、現段階ではすべて自己満足の名のもとに曲を作ったりしている。
こういう時こそ歌詞を書いたりギターを弾いたりした方がアウトプットとしては充実している気がするのだけど、いかんせんメモに手が伸びない。
形にできない感情を曲にするっていかにもアーティスティックだよね。
それが今まではできていたけど出来なくなっていて、やり場に困っているという可能性もある。

そういう出来事に何回か直面してくると、「人によっては泣いているんじゃないか」と思うようになってきた。
そう思うと進展はあっという間で、都度「あ、今泣いてるっぽい」と決めつけて自覚すらするようになった。

形容するなら何だろう。例えばこれは愛なんじゃないかとか考えたりするんだけど、そこまで愛のこと詳しく知らないので「愛だ!」と決定もできなければ、違うと言い切ることもできない。ここまで理解できないと、今まで自分の色んな感情にあまり向き合ってこなかった可能性さえ感じる。いや多分そうなんだろうな。人に頼ったこととか、ぶつかり合ったこととか、思い返すと殆どない。事なかれ主義のお前はいつも中立を貫いてきたんじゃないの?

世を渡るために中立の姿勢が必要だとその時の自分は感じていたのかもしれないし、それで人から「優しいね」と言われると当たり前だけど嫌な気はしない。人から”優しいやつ”と思われることで自分の居場所を確認していたのかもしれない。俯瞰すると、なんて自分本位なんだ、と思うんだけど、別に過去は取り消せないし最近の「今泣いているな」と思う出来事は自分が今まで事なかれ主義だったから得られたものだとも思う。

これに対して私が今したい行動は、その時関わっていた人たちと今の自分で会話がしたい、ということ。
具体的に言うと大学時代に同じサークルに所属していた友達先輩後輩、全員。
高校時代の元カノとか友人全員。友達7人しかいないけど。
その当時みんなは何を感じながら私と接してくれていたのかな、それを聞きたいな、と思う。

でも多分できない。実際自分はピエロ的一面があって、学生時代も、すぐ「なんとかなるよ!」とか「大丈夫だよ!」とか「そうだよなまぁしょうがないよな」とか安易に慰めて本質から逸らさせようとしたり話を終わらせようとする節があったし、きっといざ話ができる場面が訪れても、スイッチが勝手に入って内なるピエロが現れて人を安心させるための嘘さえついてしまう気がする。本当に自分勝手だ。
そんな自分勝手な奴と縁を切らずに関わってくれた人達みんなにお礼を言いたいだけというのが結論かもしれない。当時皆にこの気持ちを持って接することが出来なかったことが悔やまれるから、今こういう気持ちなんだろうな。どこまでも本当に自分勝手な奴。反吐が出ちゃう身勝手さだね。
え、どういう気持ちなの?と聞かれると、優しい気持ちだ。

 

本題から逸れてしまったのだけど、自分が「今泣いているんじゃないか」と思う瞬間とその余韻を、大事にしたいと思ったのでブログに仕立てたってわけ。生きているとこういうこともあるのか。事なかれ主義の今までの自分にとっては小さいけど新しい発見。里見八犬伝


今泣いているな、と思うくせに全然泣かない自分のその状態を、ちゃんと泣けないのかよ、って呆れながら愛してあげたい。酒でも飲みながらね。

 

そういう話。