歓喜天倶楽部

歓喜天倶楽部

日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

別に公言せずにヌルっと始めるのが長続きの秘訣だったりする。




何かを習慣づけたいと思っていないだろうか?

例えば新年の抱負でも
「今年は一日2時間勉強します」
「今年は22時までに就寝します」
とか、高らかに目標を掲げる人もいるわけで。もちろんそれを否定しようなんて気概はないのだけど、
少なくとも、私はそういうタイプじゃないのではないかと最近思っている。

ことこのブログ、「歓喜天日記」において言えば、
内容の良し悪しはあれど、2022年の6月16日から毎日記事を投稿している。

これは、私にとって言えば、ただの結果論だった。

そもそも私がこのブログを始めるにあたって、考えていたのは
「面白おかしく斜に構える楽しさを知ってほしい」
とか、そういう考えが何となくあって始めたんだと思う。
別に毎日記事を投稿しようだとか、広告収入で大金持ちになろうだとか、
そういうことは毛頭思っていなかった。

が、結果このブログは読んでくれている方が広告をタップしてくれたら私にお小遣いが入るようになったし、一日も欠かさず気付けば300記事くらい書きそうな勢いで続いている。

毎日記事を投稿することに関しては、昔に
「内容面白くなければ隔日投稿にするもん」とか言ってたくせに。
そこから100記事くらいは毎日続けて出している。

なぜかと言うと、もう習慣になってしまっているからだ。
別に毎日300記事近くもしたためられていることを凄いとか思ってない。
いや、ちょっとは凄いのかもしれないけど。
習慣だから、別に普通なのだ。
風呂を出たらドライヤーで髪の毛を乾かすくらいの普通の習慣なのだ。
ガサツな人ならすっぽかしてしまうレベル感の習慣にまでなってきている。
すっぽかしていたらそれは習慣ではないのだけど。


こういう事実と、これまでの私の経験から踏まえて、
私はタイトルにある通り、こういう意見を持っているというわけだ。

実は物事を長続きさせるのって、
「○○を毎日やります!」って高らかに宣言しない方が長続きしやすいんじゃないの?というもの。

この考え方に至るには容易かった。
なぜなら私が今生きているのは半分くらい成り行きによる結果なんじゃないか?と思うからだ。

成り行きとは言ったものの、そのとき強いられて積み重ねたことや、
そのとき私が興味を持って積み重ねたことのことを指している。

ちゃんとした理由や信念があって何かの物事を始めて、それが習慣になったものを私はすんなりと思い浮かべることが出来ない。

私は実は、普通の人からしたらめちゃくちゃ英語が達者なんですけど、
それも別に「英語が出来るようになりたい」と思ったわけではない。
一人でカナダに旅行に行って職務質問くらいになら流ちょうに受け答えはできる。
が、これも私にとっては結果論だった。
幼少期に海外に住んでいて、
英語の勉強を強いられてきた結果、外国語系の大学まで出て仕事で英語を使うところまで到達した。
これは成り行きで習慣になった結果だと思っている。
もちろん、その成り行きの最中は常に怠惰だったかというとNOだし、
めちゃくちゃ頑張って勉強していたことも(多分)あったと思う。

それでも、英語力みたいな意味で勉強を長続きさせて、自分の中で成熟させることが出来たのは、成り行きだったからだと。

もっと言えば、ギターを私はなんだかんだ10年以上弾き続けているのも、
別に成り行きだった。
今ではコマーシャルのBGMにアドリブでギターのフレーズを入れたり曲を作ったりするわけで。
ギターを始めた理由も音楽を聴くのが好きで、誘われたからでしかなかった。




別に今まで、
「英語力鍛えます!」とか、
「ギター始めます!」とか言ってない。


英語力鍛えます!って公言してないけど人よりは英語を使えるし、
ギタ―弾きます!って公言してないけど結構ギター弾けるし。


で、だ。
この、特に公言しなかった
ことが実は私にとってみたら長続きした秘訣だったんじゃないかと思っている。

”公言しない”ということは、何に繋がるのか。
あえて辛辣に言うのであれば、
誰からも期待されないのだ。
実際に期待されているかどうかではなく、
「公言しない」ことによって「誰も知らない」のだから期待されている件数は0件になる。

実はこれが良い作用を生んでいるんじゃないかとか思っている。

期待に応えなくては。
とか、
約束したんだから、自分を裏切っちゃだめだ。
とか。
そういうことを、思わなくなる。

精神的制約がない。

「ある程度強いられないと…」
と思う人もいるかもしれないが、

強いられてやる”何か”は、いつだって苦行じゃないですか?
と私は問いたい。


少し前の記事でも言ってたんですけど、
やりたいと思えていれば、やってるんですよ。


その「やりたい」という気持ちがデカかったから、
成り行きでも、毎日ギターを触ることが出来たし、
熱中できたし、結果、私の中で熟成されて習慣になったんだと思っています。


だから、私は「ギター弾けます」とか、
「英語喋れます」とかは、必要に応じて言うけど、
誇らしげになんて一ミリも思っていなくて、
ただ、好きだったから続いただけなんですよね。

強いられてやらされていく中で後天的に好きになる物事ももちろんあるし、
すべてひっくるめて「成り行き」という言葉で片づけるのは雑のような気もするけど、

何かを成し遂げようと思っているなら、
公言する前にヌルっと始めることが先決なんじゃないんですか?

と、思うのです。


だから、私は今後も、何かを始めるときに
冷やし中華始めます!」とかは公言しないと思います。


やりてぇ!と思ったら冷やし中華作ってるから。
やりてぇ!と思いたいわけじゃないので。

自分の「やりたい!」という思いレベルを
「どんなもんかな」って言うくらいの温度感で確かめるくらいの感じで始めた方が、
結果的に長続きしている!ということになりやすい気がするんですよね。

好きな子のことって毎日考えるじゃないですか。
考えたいから考えていると思います?
勝手に考えちゃうから好きなんですよ。

だから、何かを習慣づけたいと思う人に、
私はこう言ってあげたいのです。


好きならできるよ。


って。


とまあこんなことを思ったのでした。突然思った。マジで。