歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

忘れていくという美しさ。



実家に祖母が引っ越してきた。

祖母の認知症が進行する中、
一緒に暮らしている叔父が「もう限界だ」と相談したことで、
両親が祖母を引き取ることになった。

そして先日なんとなく実家に帰ったときに、数年ぶりに祖母に会った。

私のことは忘れていた。
10分前に用を足したことさえ忘れ、何度も部屋とトイレを往復する。
祖母は、ずっと何かを探している。


当事者ではない私は、これを美しいとか思ってしまう。

もちろん、実の親が私のことを忘れてしまった、なんて事実は
当事者からしたら受け入れがたいことだとも思うし、
私の知っている祖母ではないので、それは本当に祖母だろうかとさえ疑ってしまうのだろう。
性格がガラッと変わってしまう人だっているらしい。
祖母は、何を覚えていて、何をどこから忘れてしまったのだろうか。
他人の世話をする感覚に陥るのも、無理はない。
介護問題というのは必ず訪れる、重大な出来事なのだ。


それでも私は、
生きていることで待ち受けている「痴呆」というイベントは、
まるで人生の清算をしているかのように、なんとなく見えてしまった。


当人からすれば、
これまでの人生を忘れてしまうことが、とても怖かっただろうと思う。
きっと、忘れてしまうことさえも、もう忘れてしまっているのだろう。

それでも、祖母が生きている中で感じてきた
嬉しい記憶だとか、辛い記憶だとか、さまざまな記憶とその喜怒哀楽が、
すべてを乗り越えてきた祖母から旅立っていくように見えるのだ。
どうしても、祖母から奪っていくようには、私には見えないのだ。


色濃い人生は、美しい記憶は、
結局、実体のないものだった、と。
これらを胸に抱えて墓まで持っていくことは、できない。

それを体現しているようでならない。



私のことさえも忘れてしまった肉親の世話をしないといけない。
誰にでも訪れるその時を、拒絶してしまわないために、
どんどんと忘れていく親を、その事実を、
「神様がどんどん奪っていってしまう」のではなく、
「これまでの人生を清算していっている」と、
清算は、ここまで生きてきた人の特権だ」と、
清算された記憶は、美しいものばかりだった」と、

思えたら、いいよね。


たぶん祖母は、清算済みのそれをずっと探しているんだろうな。


人間は、忘れることができる。
忘れられたから生きてこられた人も、山のようにいる。
それでも、いつかは清算しなくちゃいけないらしい。
忘れたいことでも、忘れたくないことでも、
生きていたら、清算するときがくるらしい。
天国にも地獄にも、墓場にすら持っていけないから。


そんな話でした。





おしまい。