歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

【週刊誌嫌いに捧ぐ】なぜ人は見たくもない醜聞から目が離せないのか



フライデーが嫌いなあなたへ

皆さんはフライデー好きですか?
私は、この間までフライデーやスキャンダルの報道は、
「人間の嫌な部分の集合体」的な認識だったので
大嫌いでした。
でも、今は違います。

ちなみに、「人の不幸は蜜の味」なんて思いがある人は、
さすがにこの話の意味も伝わらないかと思いますので、
あまり読む意味はないのかもしれません。

たとえ同じ日本語であっても、話が通じない、理解できない場合は、
それは違う言語であるとすら思います。
言語は人の思考を理解するためのただのツールであって、
理解できない話を聞くというのは、ドライバー一本で家を建てようとするようなもので。
別に、理解できないことを揶揄しているのではなく、
誰にだってそう。私だって宇宙飛行士の話は理解できないわけだし。
"類は友を呼ぶ"というのは、きっとここからきているのかもしれないね。

生きるために必要な当たり前のことを再確認する

突然ですが、
生きていく方法ってなんだか知ってますか?もちろん飯を食うことです。
飯を食えなければ遅かれ早かれ生きていくことができなくなります。
飲まず食わずで生きていける人なんて居ないはずです。

では、例えば東京で生きていくためには何が必要なのでしょうか。
それは金です。なぜなら金がないと飯を食えないからです。

「働かざる者、食うべからず」という言葉がありますね。
これに関して思うところはありませんか?
私は小さいころその慣用句に対して
「俺、働いてないのに食えてるんだけどな」と思ってました。
きっと全員が感じていたはず。言葉にしなくとも、そうだった。

時々考えるんですけど、
大人でも生活費切り詰めてブランドバッグ買う人いるじゃないですか。
見栄もあると思うけど、見栄って偶像だから。
一方で生活できなくなるくらい借金抱えて
火の輪モデルの車輪を使った
灼熱自転車操業をしている人とか、いるじゃないですか。

こういうのって、子供のメンタルを持ったままの大人が陥る、
社会に食い物にされている例。
さいころ全員が通ってきた「働かなくても食える」という成功体験を
今でも信じている可能性があり、根底にあるのはこれじゃないかとか思う。
これは気づけるかどうかの問題だったんだなと気づいてから気づいた。

まあそれは良しとして、
生きていくためには食う必要があって、
食うためには金が必要で、
金を得るためには仕事が必要ですよね。
これを再度理解しておいてください。

スキャンダルを扱う仕事

場面は少し戻り、世の中にはスキャンダルを扱う仕事があります。
有名人の不倫騒動とか性加害問題とか。
そういう話を目の当たりにしたとき、
受け手の私たちは、いろんな反応を示してきました。

「そういうことする人だったんだ、最低」
「これリベンジポルノで慰謝料目当てなんじゃないか」
「また見たくもないニュースが目に飛び込んできて鬱陶しい」
「結局見てしまう自分が嫌だ」

当事者ではない私たちは、想像することしかできない。
その想像の中で、勝手な決めつけをしているのかもしれないし、
もしかしたらこの決めつけが事実なのかもしれない。

いろんなことを考えて、自分が嫌になっちゃう、その気持ちよくわかります。

今日は、そんなスキャンダルを嫌な気持ちにならずに見れるヒントを
共有したいと思います。

なぜ人は見たくもない醜聞から目が離せないのか

なぜ人はスキャンダルを見てしまうのか、
それはもちろん心理に関係する部分で、
これまでテレビで見てきた有名人に私たちが抱いていたイメージというものがありますね。
「清楚な女優」「面白い人」「優しい人」色々あると思います。

スキャンダルの報道は、基本的に私たちの
「裏切られるかもしれない」という危機感を煽ってきます。
そして危機感が働くと、「裏切られたくない」という防衛本能のようなものが働きます。

動物は身を守るとき、敵に一切目もくれず一目散に逃げるなんてことはありません。
常に敵の動向に注視し、自分が逃げるべき方向を判断する必要があります。
だから目が離せないし、つい見てしまうのだと思います。
自分がこれから悲しい思いをするかもしれない危機が、杞憂であってほしい。
理想は理想のままであってほしい。
そんな防衛本能で、目が離せない。

スキャンダル情報誌は特に、人間の防衛本能に働きかける媒体なので、
私たちがつい注視してしまうのは、動物的に当たり前なのかもしれません。


需要と供給の話

需要と供給で社会は成り立っていることはご存じですよね。
均衡がとれているかは今日は触れないけど。

ここで話したいのは、そこではありません。

もし、これを読んでいる人の中に、
”需要があるから供給がある”と思っている人が居たら、
少し考えを改めたほうが良いかもしれません。

私は普通の社会人なので、普通の社会人らしく普通にセミナーを受けたのですが、
企画力セミナーと題されたそこで、
"ターゲットの潜在的ニーズを深掘りする"練習を
アクティビティ的に実施したことがありました。

これの意味するところを考えました。

これはつまり、供給側から私たちの需要に対して働きかけを行っているということになるよな、ということ。
つまり、需要があるから供給があるのではないということ。
「これ、気づいてないだろうけど実はあなたの需要なんですよ」と言われているだけなんだということ。

新作のスマートフォンも、花粉症の薬でさえ、そうかもしれませんね。

どうやら、需要があるから供給がある時代はとっくに終わっているっぽい。
消費社会というのは、供給側が私たちの消費を刺激するという構図の社会。

「現代はニーズが多様化しているから…」なんていうコンサルがいるかもしれない。
それは全くの真逆であり、ただ供給過多なだけ。
そして私たちはその供給過多の中で生きている。そういうわけです。

供給過多の消費社会を抜け出す方法はない

需要があるから供給がある世界に戻りたい…
なんて思うかもしれないが、もう戻れない。

あるとすれば、
「全員一斉に供給を辞める」
それ以外には、たぶんないような気がします。

でもそれができない。
あえて物騒に言うのならば、
消費社会での供給側は、お互いに銃口を向けあっている状態だから。
「せーの!」で社会を捨てられるほど、互いは互いのことを信じられるわけがない。

ある供給側が「この消費社会から抜け出す…」と言って仕事を畳んだとします。
するとどうなるか、
最初の話でもあった通り、金がなくなって死にます

働く理由



消費社会で生きる私たちは、生きるために働いているのではなく、
死にたくないから働いているのかもしれません。

私は、子孫を遺す以外の生きる意味を人間が追求した結果、消費社会が生まれたのだと思います。

そんな消費社会で死なない為にはもちろん、供給を作らなければいけません。

そして、現代が消費社会であるという現実からは逃れられません。
手放そうとしない人が一人でもいる限り、消費社会は終わりません。

そして、人間が、子孫を遺すこと以外に生きる意味を見出そうとしていなかったら、
このような社会が生まれることはなく、大自然の中でただ生まれ、ただ子を作り、ただ死んでいったことでしょう。

もしかしたら社会は、人間が生まれ、子を作り死んでいくというサイクルから抜け出したいと思ったからできたのかもしれません。

"自給自足"というのは、
"自分で供給し、自分で足りる"という意味であり、
社会から抜け出した後の状態のこと、
ひいては社会が生まれる前の状態を指すと思います。

結論

フライデーだとか文春だとかいうものが生まれた理由について考えることができれば、
私たちは頭ごなしに「文春は嫌いだ」と攻撃はできません。

とっくの昔から始まっていた消費社会において、
生きていくために供給を創造し続けた先に生まれた、
「これなら俺たち食っていける!」という手段にすぎないのではないでしょうか。

では、文春をついつい見てしまう自分を嫌いにならない方法について。
文春を嫌な気持ちで見ない方法について。

それは、危険ではないことを理解することです。

私たちの生存本能に働きかける媒体ではありますが、
それは、私たちを傷つけるために生まれたものではないことを学習することです。
実際に命が脅かされることは無いことを、学習することです。
これは、”慣れる”とも言います。

消費社会において、生きていくために生まれた金を稼ぐ手段にすぎません。
「もっとマトモに金を稼げよ」という意見もあるかと思いますが、
既に説明した通り、スマートフォンとフライデーに、その差はありません。
どちらも先に生まれた供給であり、消費社会で生き延びるために生まれた金を稼ぐ手段です。
醜聞のスクープというのは、人間の防衛本能に働きかけることができる
=自分たちが確実に生きていくことができる手段だと発見されたためです。

どちらも、目的は消費を促すことであり、
供給側が飯を食い、生きていくためであるため、
とても短いスパンで更新されます。

人類が、子孫を遺すこと以外に生きる意味を見い出せたとき、
消費社会は終わりを告げることができるかもしれません。

全ては人間が生きる意味を見出そうとした結果生まれたものであり、
消費社会は、これを自由に享受できる社会ということです。

自給自足だった人類が、新しい生きる意味を求めて
進んだ結果が社会であり、消費社会であり、
そして今も私たちは、さらに次の次元を求め続けているのだと考えます。

私たちにできることは、理解し、享受することです。
好きに享受すればいいのです。

その結果、自分や他人を憎むことになっても、
私たちが本当にこの消費社会から抜け出すことは叶わないから。
だったら、せいぜい楽しめばいいんです。

何かに喜んだり悲しんだり、羨んだり憎んだりするのも、
スマホも、豪華なランチも、ファストファッションも、スキャンダルの報道も。

新しい生きる意味を人類が見出すまでは、このまま。
消費社会の力を借りながら。私たちが生きる意味を考えていけばいいのです。

おわりに




堅ッ苦しい~~~~!!!!!!!!!!!!!


ンあ~~~~~~~~!!!!!!!