歓喜天倶楽部

歓喜天倶楽部

日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

コンピューターではできないことだから写真を撮るのかもしれない。



私の趣味の一つとして、写真を撮るということがある。
いつだって相棒のライカを持ち歩いている。


※This is my buddy.

これまで、散々と言っていいほどにこのブログでも
カメラの在り方だとか、写真との付き合い方だとか、
語ってきたわけだけど、なぜ私が写真を撮るのか、については、
今まであまり考えてこなかったような感覚が、突然訪れた。

少し話を広げる。
「三現主義」という言葉をご存じだろうか。
いわゆる製造現場なんかで重要視される、
「現場」「現物」「現実」をしっかりと認識したうえで物事を考えようぜ!
という考え方のことで、「アンチ机上の空論」とも言えるかもしれない。

この三現主義が、私が写真を撮る理由に関連しているような気がする。
そして今日のブログは、小難しい話が連発される予感がしている。

私たちは、常に何かしらの物を見て生きている。
そしてその物は、光があるからこそ、私たちは認知することができる。
光そのものには色はない。物の色は、太陽などの光源から反射された光の波長を、
その「物の色」として見ているのである。もしくは物自体に光源があって、その色の波長を見て認識する場合もあるが。

例えば私たちが林檎の色を赤と認識するのは、
林檎という物体が持つ反射率の高い波長が赤だからだ。
赤以外の色の波長を林檎自身が多く吸収している。

物体自身に光源を持たない物体。
例えば木や海、岩や土、ビルなど。
これらの色が、本当にその色であるかどうかは、光のみぞ知る、という事だ。
私たちは反射している光の波長を見て、視神経越しに認識しているだけに過ぎない。
そして光の持つ性質として、光は粒子であり、波動であるということが分かっている。
しかも光は、私たちが観測するかどうかで、粒子として振る舞ったり、波動として振る舞ったりするらしい。光は、私たちが関わることで振る舞いを変えてしまうということだ。
詳しくは、「二重スリット実験」で調べてみてほしい。

もっとワクワクするような言い方をするならば、
私たちが見ているものは、光のきまぐれで定められたものだ。
といった感じ。
そして私たちはそれらを「現場」「現物」として認識して、
現実」としている。

光が気まぐれで私たちに見せている「現実」しか、私たちは知ることができない。真実性はどこにもないのかもしれない。

これを踏まえて、本題に沿って話を戻そう。
写真というものは、どういう仕組みなのかについては説明を省くとして、
写真は、記録であり表現である、という事のうち、
私個人が重要視しているのはどちらかというと「記録」の側面だ。
色に関しては人間が認識できる範囲のことだけを、
RGBだとか言ってとっくの昔に定義していて、カメラにもその機能を落とし込んでいる。
人類が歩んできた技術の進歩を軽んじて言い放つのであれば、
”その程度”であるとも言える。人類の限界でもあるかもしれない。


ここまでしっかり読んでくれた人にしか伝わらないのかもしれないが、

私が写真を撮る理由は、
私たちが認知できる限りの「現実」の
”不安定さ”の中(という前提)で、
私が見ている「現物」に対して、
”写真を撮る”という所作・行為を以て、
写真の”記録”という側面を活用して、

「本当は君はどんな色、形をしているんだい」

と語り掛けたいからなのかもしれない。

これは、現実にしか成し得ないことで、
実体があるからこその、
私たちが自然に対して求めることができる問いかけなのかもしれない。

無論、それはコンピューターの中とか、実体のない場所では成立しない。

人類が一丸となって、今も尚うねりを上げて進化している技術社会の中で、今後近い将来に仮想現実が本格化するにあたって、技術的特異点が起こった後でも、
私たちの衣食住を伴う現実というものは、しばらくは干渉されない重い領域であると思う。
人間がこれまで作り出してきた自然と、コンピューターの世界がこれから作り出していく自然が、
互いに干渉し合う日は、まだ来ないと思うし、
それはまさしく、神の領域なのかもしれない。
幸福について、宗教について、世界について、それらの再構築について考えるのは、
きっとまだ早い。

私は、写真を撮るという行為を携えて、今という現実を記録し続けたいと、
たぶん、思っている。

バシャバシャと何百枚も撮らないのに、
ましてや一枚も撮らない日もあるのに、ライカを常に持ち歩くのは、
記録的側面が私にとって大きいものだからなのかもしれない。
JPEG撮って出しなのも、なんとなく腑に落ちてしまった。

現実は、これまでも形を変えてきたし、
これからは更にスピードを上げて変わっていく。
私は、私が認知できる現実と対峙して、それを記録していきたい。
歴史がそうしてきたように、私も例に漏れず同じなのだろう。

カメラのボディの機構。
シャッターを押した瞬間に、網膜の代わりに現実を一幕として切り取るもの。

だとすればレンズは。
シャッターの瞬間の現実を、湿度とか、明るさとか、いろんなものを
ひとまとめにしてカメラのボディに情報を渡す、光の計算機ともいえるのかもしれない。

そんな機構が、もっと踏み込めば作った人の願いみたいなものが、
カメラとして現物として存在することが、


なんというか、たまらない。


そして、ここまで記録的側面を重要視して写真を撮り続けているわけだが、
表現的側面と真正面からまだ向き合っていないという事実が、
カメラ、写真という分野の奥深さを体現しているような気がする。


ということで、タイトル回収です。
コンピューターではできない事だから、私は写真を撮るのかもしれない。

そんな(長々と小難しい)話でした。