歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

『暇と退屈の倫理学』が凄すぎる話。



本の紹介


ふと思い立って、最近読んだ本の紹介をしようと刻印の無いキーボードをスコスコと打っている。



良い肉で米が進むのと同じ様に、良いキーボードでもタイピングは進むのだ。


お気に入りのキーボードの自慢はさておき、
國分功一郎著の『暇と退屈の倫理学』を紹介する。



『暇と退屈の倫理学』は、退屈とは何かを科学する哲学書

「暇」とは何か。人間はいつから「退屈」しているのだろうか。
答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。


私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。
生きることはバラで飾られねばならない。



500ページくらいある結構分厚い本だが2日で読了した。
とにかく凄すぎた。

興奮して、いてもたってもいられなくなって、
インスタのストーリーで「この本に出会えたことに感謝している」なんてことを言った。
それでも冷めやらず、散歩に出かけた。
「凄かったな…」と消化しきれない感動を咀嚼することを楽しんだ。

まず感じたのは、「私の考えも似たようなものだったな」ということ。
それと同時に感じたのは、國分先生との圧倒的な差を見せつけられた。

それは思考の成熟度であり、論理性もそう。
論理性のところでいうと、
「退屈」の正体に日常生活のよくある(想像しやすい)事例を用いて迫る章があったのだが、
それはもう圧巻だった。
哲学書を読んだのが初めてということもあるが、
「うわ、確かに…すげぇ…やべぇこと言ってる…」
と声に出しながら読まないと興奮に体がもたなかった。

それだけじゃない。
成熟度や論理性だけじゃなく、優しさや人間味さえも私には欠けていたのだと気づいた。

一言で言うなら、本当に優しい本だった。

決して読者を甘やかすことなどはなくて、それでも、やさしさに溢れていた。

「つらい」という感情にうずくまっていたところを
「ほら」と手を差し伸べられた感覚のような。

高校生くらいから哲学には何となく興味があったのだけど、
「答えのない問い」「きっと辛いんだろうな」と決めつけて
特に勉強することなく生きてきた私だが、
哲学とはこんなにも素敵な営みだったのかと今更思い知った。

読んだ後、こんな気持ちになったのは、
この本が優しい本だったことの他でもない証拠だと思う。

本物の哲学は、人の心をこうも動かすのかと。
マジで参勤交代くらい動かされた。

この胸の高鳴りとか、喜びとか、暖かさとか、そういうの。
多分二度と忘れ去ることはないんだろうな。

実際、この本を読む前と後とでは、
考え過ぎて病むというメンヘラムーブする頻度が格段に減った。
しかもただ楽観的になるとか、気を逸らして考えない、とかではなくて、
根拠を持って前を向いている。そんな感覚。

この本で世の中の心療内科は絶滅しない(※本書を読解できないメンヘラも一定数存在するはずであるため)が、
少なくとも、うつ病あがりの私が今でもたまに抱える
人生に対する仄暗い気持ちや絶望感は、割とすぐに霧が晴れてくれるようになった。

バラを飾りたいんだと思えるからだ。

退屈とは何か。
なぜ、生きることはつらいのか。
そんなつらい私たちは、どうしたらよいか。

そんなことが書かれている優しい本。


学校を卒業し、社会人になり、歳を取り、
環境が変わり、今まで会っていた人とも会わなくなって、
新しい環境にも慣れ、なんだかんだ飯も食っていける。
青春時代と比べると出来ないこともあるが、出来ることも増え、
これはこれで充実している。
それなのに、現状にそれなりに満足しているはずなのに、
何か足りないような感じがする。そしてそれが何なのかハッキリしない。

そんな人にこそ読んでほしい。
この本はそのへんの自己啓発本100冊分の価値がある。


あとがき



調べてみると、
どうやらこの本、2016年の高校の教科書に一部載ったらしい。

私が高校生の頃は、いかにしてスクールカースト上位の人間に見られるかだけを気にしていた。
どうにかして校則を破り、どうにかしてキラキラした高校生活を送りたかった。
まあそんなことばかりしていたらガチスクールカースト上位の
サッカー部からイジメを受け、不登校気味になったのだが…
人からどう見られるかだけを気にして生きていた私からしたら、
現代文の教科書の内容に関心する余裕などなかったな。


「学校なんてくだらねぇ!」(本当はいじめられるから行きたくないだけ)
なんていう反骨精神を持っていたけど、
今更、学びというものの凄さを痛感している。
学校って凄い場所だ。人生が変わる機会にあふれていたんだな。


まだまだ私は私の人生を豊かにできそうだ。