歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

【哲学的考察】撮りたい写真が分からなくなった時。

プロセスのほうが大切

結論を急ぐ癖は極力無くしていきたいと思っている。
私は、何事も結果よりも過程のほうが大切だと思っている。
哲学のいいところは、そう思わせてくれるところだと思う。
そして、哲学というものは、これからどうしたらよいのか分からない時に、
助けになってくれる考え方だとも思っている。
先に断っておくが、私は哲学者でも何でもない。

どんなに好きなことでも必ず飽きる

私は、趣味の一つである写真に明らかなブランクめいたものを感じていた。
ただ好きで常日頃見ているものを写真に収めているだけなのにも関わらず、
撮りたい写真が分からなくなってしまった。

実際、無理もない話だと私は勝手に納得していた。
なぜなら人間は何においても、いつか必ず飽きがやってくると思うからだ。
おそらく、日々、日常見ているものを記録的に写真に収め続けることに
私は飽きてしまったのだろうと思う。
飽きてしまったというよりも、退屈が芽を出してきたのだ。

これは、どんなに打ち込める趣味であろうと、生活であろうと、
どんなに好きなことだったとしても、必ずやってくる。

私は退屈が芽を出すたびに、
岐路に立たされ、毎度①を選んできた。

①惰性で続ける
②頑張って前に進む
③いっそのこと辞める

趣味だからいいじゃないか、と。
時にはカメラの仕組みを勉強したり、
時にはレンジファインダーの良さを考察したりした。

カメラの話

写真の話に戻ると、
私はLeica M-P TYP240(以下TYP240)というカメラを、
かれこれ5年ほど使っている。
その前は、OLYMPUSのPEN-Fを使っていた。今も持っている。
その前は、同社のOM-D EM10 Mark2を使っていた。壊れた。
その前は、ヤフオクで1万円くらいで買ったSONYの一眼レフを使っていた。実家にある。
スマホではなく、わざわざカメラ機で写真を撮る、という体験は、
なんだかんだ言って10年くらい続いているっぽい。

正直な話をすると、その10年の間にも何度か「飽き」の岐路に立った。
その度に惰性による現状維持を続けてきた。現状が私にそう認識させる。
もはや「またこの岐路か…」と、岐路に立っていることにさえ
飽き飽きしている。
だから今立っている岐路は、
惰性による現状維持が潰えた、2択の岐路。そんな感覚。
歯を食いしばって前進するか、いっそのこと全部やめるか。

写真は、途中で投げ出せるほど浅いものではなさそうだ

とはいえ、写真には、人生を賭ける価値があるとさえ思う。
それがたとえ仕事だろうが趣味だろうが、多分あまり重要じゃない。
カメラや写真が秘めるものは、きっと相手を選ばないから。
これまでそうだったように、
カメラは何よりも得られるものがある。人生が豊かになる。
それだけ奥深くて、それだけ美しいものだと思う。
往年の大企業の社長が老後の生活でカメラを始める
なんて話もよくあるくらいだ。

結論、多少飽きた程度で写真を撮ることを辞めたくない。
もっと私の人生を豊かにしてくれることを期待しているからだと思う。

それを私の感情では"勿体ない"という。

一方で
「惰性でもいいじゃないか!」
「気楽にいこうぜ!」
と言っている自分もいる。

しかし、惰性で続けた場合、すぐにこの岐路に立たされ、決断を迫られる。
騙し騙し惰性で続けても、飽きが来るスパンが短くなっていく一方だった。
辞めたくないという葛藤とがぶつかって、また心が摩耗する。
私は身をもってこれを知っている。

この気持ちには心当たりのある人も多いのではないだろうか。
好きなことをしているはずなのに、
なんか退屈だと思うこと、ないだろうか。

私はいい加減、何か変えたかった。

現状からの脱却のための行動

じゃあ何をしたらいいだろうかと考えたときに思い浮かんだのは、
RAW現像をすることだった。

今思えば、”溺れる者は藁をもつかむ”というコトワザの通りだ。
何をしたらいいか分からないとき、
手当たり次第手を出すことが一番手軽だからだ。

今まではJPEG撮って出しで写真を撮ってきたが、
一段レベルを上げるために、自分のスキルを磨いてみようと思った。
感覚的に写真をレタッチするのは、なんとなくで出来た。
標準はあるだろうが、きっと正解はないし、自由にやってみた。

RAW現像をする中で、一つの問題点にぶち当たった。
これが今回のブランクの要因だ。
皮肉なことに、ブランクの要因でもあり、
今回の考察のきっかけでもあった。

RAW現像をする中で、TYP240の特徴でもあった
独特な空気感というか、優しい色味のようなものが
毎回全部死んでしまうような感覚があった。
それでも、自分の色味や良さをRAW現像によって出せると信じて続けた。

結局、技術の問題もあるだろうが、
大体の写真は、JPEG撮って出し以上に気に入る仕上がりには成らなかった。

課題にぶち当たった。

問題はそこではなく、別にあった。

私がおぼろげに個性だと思っていた、「自分らしい写真」は、
RAW現像でレタッチすることによって壊れてしまうものだと気づいた。

つまり、
今まで私は、私らしい写真を撮っていたわけではなくて、
イカらしい写真を撮れていただけだった。

見たものや好きなものをとりあえず撮ってきたフェーズに飽き、
もう少し表現力を身に着けたいと思い、RAW現像を試し、
それが結局、自分らしい写真とは?という疑問に立ち返るきっかけとなった。

私は自然と、写真について考えていくようになった。
じっくり物事を考え込むのは好きだ。

撮りたい写真は「記録」か「表現」か

私はつくづくこういうことを考えるのが好きだ。
「実際どっちだっていいじゃないか」とも思う。
そこを敢えて、意地悪く考察する。

これまで撮ってきた写真たちは、記録的だった。
見てきたもの、良いと思ったものを、おもむろに記録してきた。

そしてそれに、おぼろげに飽きてきたから、今こんなことを考えているはずだった。

結論、記録か表現か。それはどちらか一方ではないと考えた。

写真が記録的であることは写真の仕組みに最も近いものであり、
それを芸術として表現する世界中の写真家は、
記録の中に自分なりの表現を持っていて
それを作品たらしめているのだと考えた。

記録の中に表現を混ぜ込んだり足し込んだりする感覚。
だからこれはきっとどこかいい塩梅を見つけるものなのだろう。

表現100%なら多分写真を撮らずに絵を描いている。

記録としての写真

写真を撮るということは、画像として保存されるということ。
画像として保存されるということは、後になってそれを見返したり、
それを印刷したりするという可能性を宿すということ。

逆に言えば、後でこの瞬間を追体験したいから、今写真を撮る。
写真を撮るときの原動力となるのは、そういうものだと思っている。

その写真を見たとき、私は具体的にいつを追体験したいのかを考えた。

そこから見出した答えは、これまで当たり前のように無意識にやっていたことで、
ただ単に明確化しなかっただけのことだった。

その写真を撮った前後に感じたものを思い出したいのだろうと思った。

その日は寒かったなとか暑かったなとか、
人が多かったなとか天気が悪かったなとか、
こんな会話してたなとか、
この写真を撮った後こうなったんだっけな、
とか。そういうことを思い出したいんだろうなと。

そして、
「写真に写っている”時間”」と
「写真を見ることで追体験したい”時間”」には開きがあることに気づいた。
開きがあるというよりも、もはやイコールではないことに驚いた。

これが個人的には一つ得た気付きになった。

そこから考えると、一つ明確化できたことがあった。

記録の場合、情報量は今までの感覚で多ければ多いほうが良いと思っていたが、
写真における記録の場合は、どれだけ情報量を多くしたところで、
後から思い出したいものというのは、
その写真の情報から読み取れるものではないのだということ。

多かれ少なかれ、写真はその時を思い出すきっかけではあるが、
そのための完璧な情報源ではない。

記録でいいなら、なぜ映像じゃないのか

この岐路に立つまで、「写真は記録でしょ」と思っていた。
ならば、なぜ記録として前後も記録できるという意味で
優秀な"映像に残す"という手段を取らないのか。
これまで答えられなかった。だからこそ、そこを考えた。

追体験したい時間があるのに、映像に残さない理由
これがあるはずだと思った。

「想像力に委ねたい」と思っているからだと思った。

或る時間を思い出したいとき、
私はそれを明確に可視化したいわけではないのだと思う。

漫画と小説の違いに通ずるような。
絵として明確化される漫画よりも文章から情景を想像できる小説のほうが、
追体験としてのバリエーションを与えることができる。それと同じかもしれない。

写真の記録としての面白さに、同じ要素を見出した。

写真に撮った時間の追体験を想像できる事。
「追憶」ってそういう意味のワード?ちょっと違うのかな。

写真に付け足したい表現

良い写真とか、メッセージ性のある写真というのは、どういう写真なのだろうと考えた。
そこに、記録としての写真の要素と合致した部分があった。
私はその気づきのおかげで、ブランクから一歩踏み出すことができた。

分かってはいたのかもしれないが、今回しっかりと思考のプロセスを踏んだことで、
心から納得することができた。
自分の言葉で説明するというのは、こんなにも重要なのか。

表現として良い写真というのはつまり、
余白がある写真だと思った。

記録としての写真の要素の中で挙げた余白と同じ意味だ。

追憶する余地。これが余白だと思った。

私たちが写真を見て「なんか良い」と思うときの「なんか」というのは、
「撮られた時間の前後の想像を刺激されるから」じゃないだろうかと思った。

写真に写っていない前後の時間を想像するということは、
写真に写っていない前後の景色も想像するということだ。

この刺激を促される技術が、表現なのだと思う。

その技術として分かりやすいのが、
写真に余白を作ることだと思った。
物理的に余白を設けることで、写真に写っていない景色を想像させることを促す、
そこから想像を働かせる、そういう意味や効果があるのだろうと気づいた。

余白を見て写真の外を想像するのは、
多分私たちは無意識に、やっていることなんだろう。

物理的に余白を作るのも技法のひとつで、
写真の中に余白を持たせる技法もあるはずだと思った。
構図とか、そういうセオリーだけじゃない部分があると思った。

きっと、想像を促すことができればどんなやり方でもいいのかもしれない。
写真の焦点距離を変えるのも、物理的に余白を作るのも、
写真の中に余白を持たせるのも、すべてはこのためと考察する。

結論


自分らしい写真とは?という問いに、今の私は、まだ答えられない。

それでも、肩の荷が下りたというか、楽になった。
多分、飽きの岐路に立たされるのはしばらく先になるだろう。
そう思えるような気付きを得ることができた。

撮った写真と、写真から思い出したい時間は、違うということ。
極端に言えば、関係がないのではないか、という仮説を立て、
写真の持つ、自由さとも言い換えられる可能性。
これに心を躍らせている。

私は無理にRAW現像をするのを辞めた。
RAW現像は、写真で表現した自分らしさを増幅させる技術なのだと思ったからだ。
自分らしい写真を追求できた先にある、技術みたいなものだと思ったからだ。
RAW現像は自分にはまだ早いんだろうな、と思うことができたのだ。
もちろん、「私にはまだ早いからやらない」という考えに固執するつもりもなく、
思うがままに自由にやる。それでよかったのだと思うことができた。

TYP240の色味、せっかくなら活かしたいしね。

歯を食いしばって前進する必要は、なかったことに気づいた。
ある種、初心に帰ったとも言えるし、この考察のプロセスが、
私の背中を押してくれているような感覚だ。
初めてカメラを手にしたときのような喜びを持って、カメラを構えていきたい。

この考察が正しいかどうかが価値があるのではなく、
考察を経て私が前を向けたことに価値がある。終えた今、そう言い切れる。


しばらくは、この思いを写真に収められるかどうかを試し撮りする日々が続くことだろう。