歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

ありのままは写せない。





こちす。篠野す。


今日は、写真から、紐づいて、変なお話をします。

書く前から変なお話って言っちゃって、全然変じゃなかったらどうしよう。


いくぜ!

あ、トピックです。




写真について




写真って、あるじゃないですか。


うん、分かりますよね。


例えばこういうのとか、



こういうのとか。



突然のゆるキャン


こういう写真から連想したお話です。



ありのままを写す。





昨今の流行は、何といっても


レトロ

じゃないですか。



なんというか、スマートフォンで撮った写真を

アプリでフィルムカメラ風に加工して、


いかにも、エモく仕上げるじゃないですか。



で、インスタグラムとかに挙げて、承認欲求を満たすわけじゃないですか。



なんて言うか、世の中、「映え」というものを意識しすぎていて、

「映え」に魂を売ったマズイ飲食店とかも、ごまんとあるじゃないですか。


しかもそれがウケる時代。

それ、本当に民意?



また一方で、


「写真はありのままを写したい」


そういう方もいらっしゃるじゃないですか。


というか私もその方が好き。


で、考えたんです。



「ありのまま」って何か。





アナと雪の女王は、

なぜか見る機会がなかったので、もう意地でも見ないつもりです。



話が逸れましたが、

写真における「ありのまま」って何なんでしょう。


一つ言えることは、


見た景色、そのままであること


なんじゃないかと。


というか、写真においてはそういう定義でいいかもしれません。


「ありのまま」は過去には存在しない。





哲学的になってしまっていますが、

そう考えたんです。


例えば写真を撮って、

ありのままの景色を撮ったとして、

それを見返したときに、


それは果たして本当にありのままなのでしょうか。





その時(写真を撮ったとき)は、

「ありのままを撮った」と思うのかもしれませんが、

時間が立って見返したときに、

「ありのままをしっかりと撮ったな」

とは、思いにくいのではないでしょうか。

それはなぜならば、もう「ありのまま」ではないからではないか?


そういう疑問。

本当に自分の目に見えたものが「ありのまま」なのか。





だんだん難しくなってきましたね。


いま、あなたが見ている景色は、

本当にそこに存在しているのでしょうか。


在るがまま、であるはずのそれが、

他社にとって同じ「在るがまま」なのか、

どうやって証明できるのでしょうか。

もしかすると、それを支援するツールが、

カメラ、っていう存在の定義の一つかもしれません。



私には、わからん。
じゃあ誰が分かるねん。

写真の行き着く先は…?





そうなってくると、写真の在り方としてどう変化していくか。


二分されると思います。というかしてるし。

表現記録ですね。




しかもこの二分された写真の在り方は、

常に共存しているということが

写真にとっての肝だと思ったんです。



伝わっているだろうか。


自分でも迷子になってきた感じがします。

結論、ありのままは存在しない。




そういう事です。

ヤバ理論な気がするけど、許してくれ。

私たちが目にしたものが「ありのまま」である証拠がないのに、

カメラでありのままを写すことなんて、できやしないんですよ。

やっぱり、写真とか、音楽とか、絵を描くこととか、

「表現」が伴う娯楽って、

深淵に進む、でっかいアリジゴクですね。



結局、写真を撮り続ける。






私は、結局、写真を撮り続けるんだろうなと。



なぜならば、

私は、将来写真を見返して、
過去を振り返りたいし、
自分が見たままの景色を撮った写真を見て、
もしくは、
自分が「こう撮りたい」と意識して撮った写真を見返して、
過去の自分の感性と、今の自分の感性を比較していきたいからです。




気に入った写真が撮れるのも、

「ありのまま」を写せないと思いながら撮る「ありのまま」も、

全然気に入らない写真しか撮れないのも、

出来るだけ「エモく」撮ろうとして撮った写真も、



すべて、私の意思があったからこそだ、と。


それを大事にしていたいんです。


カメラは、私にとっては道具です。


とっても不思議な、素敵な道具ですね。



ということで、おしまいです。


写真好きの人たちと、カフェで語り合いたいよ私は。


楽しんで生きていくぜ。

カメラめっちゃ楽しい。


結果、めちゃ変な話でした。