歓喜天倶楽部

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日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

”ライカには空気が写る”について解明していく。



カメラが好きで、写真が好きな人なら
少なくとも耳にしたことがある、”ライカ
誰もが憧れる名品とされるライカ
ピアノならスタインウェイ
車ならポルシェ。

そして界隈でよく耳にする言葉。
”ライカにしか出せない写りがある”だとか、
”ライカには空気が写る”だとか。

今日はその"空気が写るライカ"について、私の主観で
作例を交えつつ、メカニズムを解明していこうと思う。

”解明”と聞こえは良いが、自分なりの解釈を述べるだけなのだが。
それでも、ここで、ライカが持っている独特さを少しでも言語化してやれたらいいと思っている。

ちなみに「ライカには空気が写る」と言ったのは、木村伊兵衛氏の言葉だ。

断っておくが、先に結論を述べるようなことはしない。
結果ばかり急いでプロセスを蔑ろにする癖ばかりが付いてしまった人には、
きっとこの奥行きを理解することは難しいだろう。

その代わり、読み物として上質なものになるように、少し口調を変えたりして進める。
ぜひ、一呼吸置いて、暖炉の炎を見るように、じっくり読んでもらいたい。



先に、私が愛用しているライカについて触れておく。

私はLeica M-P TYP240というカメラを愛用している。
まずは「M型のデジタルライカ」と言えばわかる人にはわかる。

2014年に発売されたカメラで、もうそろそろ10年が経とうとしている。
私はこのカメラを2018年に手に入れた。
「清水の舞台から飛び降りる気持ちってなるほどこういう気持ちか」と、よく覚えている。

スペックの話をすると、馴染みのある言い方をすれば、
2400万画素のCMOSセンサーを搭載したフルサイズのミラーレス一眼
という括りになる。

このカメラの位置づけの話。
M型デジタルライカのラインナップでは、
今でも高い人気を誇る、最後のCCDセンサーが載ったフルサイズ機「ライカM9」と、
フィルムのM型ライカと厚みが遜色無くなった後継機「ライカM10」の間。
そのタイミングで発売された一台がこのTYP240にあたる。

実は動画も撮れる。デジタルのM型ライカのラインナップではTYP240だけ。
そしてこの日本にはこのカメラだけで撮られた映画も存在する。凄まじい根気と愛の賜物。
www.youtube.com



先ほど、ミラーレス一眼と言ったが、
厳密には通常のミラーレス機とは少し異なる。

M型ライカにはミラーレス一眼のような電子ビューファインダーを搭載していない。
電子ビューファインダーというのは、
要はファインダーに小さなモニターを付けているというイメージで良い。
M型ライカにはそれがない。
代わりにレンジファインダーという距離計の機能が付いた
素通しのガラスのファインダーが付いている。
そのため、正確にはレンジファインダー機である。

使い勝手も全く別物なので、もしM型ライカを手にする場合は、
一眼レフやミラーレスユーザーの方は覚悟しておいてほしい。

ちなみにM型ライカのMは“Messsucher(距離計)”のMだ。
この距離系の仕組みは実にアナログで、物理的にカメラ内部のコロという部品が
レンズの動きに合わせて動くことで、距離計が動き、被写体との距離を測れる、というものだ。

ちなみに余談だが、
なぜM9の次の機種のTYP240が順番的にM10という名を冠さずTYP240になったのかというのは
イカが「タイプ○○」という呼称を定着させたかったからだそう。
他にもTYP262とかも出したが、結局定着しなかったためM10に戻したのだとか。
いや、マジでわかる。新作が出るたびに番号を増やしていくの、嫌いだもん。
iPhone15て。私が使ってた時は5だったんだけど。
次のナンバリングの機種がすぐさま出て、
「お前のは型落ちだぞ!」と言わんばかりに明確に陳腐化を加速させる。

消費社会におけるこれらの合理的で象徴的なナンバリングは、愛着を削ぐ要因になると思う。
TYP○○としようとしたライカの試みは、ライカ一台一台を消費社会におけるナンバリングではなく、
それぞれを個性としたかったライカの意思表示として私は捕えている。
だから私の中でこのカメラは陳腐化しない。消費社会への遡行を感じて、良い。
イカ以外のカメラで言うと、NikonのDシリーズなんかは、
ナンバリングの仕方がiPhoneのそれとは異なるため、近しいフィロソフィーを感じる。


前置きが長くなったのでスペックの話に戻る。

センサーサイズはフルサイズ、画素数は2400万、CMOSセンサー
シャッター速度はバルブから1/4000まで。
ISO感度は200から6400まで。


スペックとしてはよくあるスペックだが、
現代のカメラと比べると暗所に弱い部類になるだろう。ISO感度の上限的に。
今もう常用感度20万とかの世界らしいから。
20万て。ブラックホールとか撮る?
素数とセンサーサイズが同じで、ちょうど最近話題を掻っ攫った現代機と言えば、
Nikonのzfだろう。
Nikonが体重を乗せてぶん殴ってきたプロダクトだと思う。
私がNikonユーザーだったら買っていたかもしれない。
でもそれはライカをこよなく愛する私が許してくれないのだ。

さて、ようやく本題に入ることができる。
温まってきたところで、解明に移ろう。

この写真、どの季節に撮ったものか、分かるだろうか。
ぜひ想像してほしい。





ちなみに答えは秋。10月の初旬に撮ったものだ。
秋とはいえ、今年の秋は暖かく、夏のように暑い日々が続いたことも、記憶に新しいだろうか。

この写真に関して言えば長野県の標高の高い場所で撮っており、空気がよく澄んでいて、
肌寒さがあったことを思い出せる。

ところでどうだろう。予想は当たっただろうか。
暖かさか、涼しさか、少しでも感じたものと近い答えだっただろうか。

当たったのであれば、それはなぜだろうか。
それは、空気を写しているからなのかもしれない。
むろん、私はこの写真に涼しげな空気感を覚えているが、
もはや体験による思い込みなのかもしれない。

ちなみにこのTYP240でのスナップは、全てJPEGの撮って出しで行っている。
RAW現像に関心がないのではなく、このカメラにおいて言えば、
必要性を感じていないからだ。わざわざRAWで撮る必要がない。

私はこの、見たままよりも淡いが、決して淡すぎるでもない、
それでいて繊細な諧調表現を携えながら
JPEGで吐き出す、この優しい色味がとても好きだからだ。
この色味を壊したくないという思いがある。
そして、ライカが写した空気と呼ばれるものも、
下手にRAW現像すると無くなってしまうと感じたことがあり、
なおさらJPEGで撮っている。


もう少し具体的に解明を進めていこうと思う。

私が「空気も写している」と感じる要因となる複合的な要素の一つとして、
まずは、周辺減光が挙げられると思う。



フルサイズなど、大きなセンサーサイズのボディに、
開放F値の低いレンズで開放近めに撮ると、特に四隅が暗くなる現象、
いわゆる周辺減光が起こる場合がある。

写真の界隈において周辺減光はできるだけ避けるべきとされているが、
私は周辺減光も表現の一つとして活かすべきだと考えている。
周辺が暗くなってくれているおかげで、この写真の場合は、
主題となる木造のディティールの迫力が際立っている気がする。

そして、
この周辺減光による、四隅から主題への明るさのグラデーションが、
もしかすると写真に空気感を与えているのではないだろうか。

もしこれがライカが写す空気の正体なのであれば、
「フルサイズで大口径レンズで周辺減光出るように撮ればライカっぽくなるんじゃない?」
とも思うが、これを見てほしい。



見る限り、これまでのような周辺減光は発生していないが、
それでも空気が写っているような気がしないだろうか。

ここで私が着目したのは、ホワイトバランスだ。
確かホワイトバランスはオートで撮っていたと思うが、
どことなく青みがかっているように見える。
私が感じたこの青みみたいなものが空気感の正体で、
写真右上の灯りに近づくにつれ、その青さが黄色みを帯びていく。
そのグラデーションが、空気を連れてきているのかもしれない。

この独特な優しさのような色味は、
少なくともCCDセンサーが載ったM9などでは撮れないものなのだろう。とか思っている。






え…


てか周辺減光めっちゃ起きてるやん。左上とか特に。ウケる。




最後に空気を写す要因として特筆すべき要素の中で、
私が一番有力だと思っているのは、ボケのしかただ。
この、福岡の夜に屋台街を撮った写真に、
撮った当時、美味い日本酒をしこたま飲んでいながら
ハッと酔いがさめる思いをしたことを鮮明に覚えている。



縦構図の写真ばかりで見づらいかもしれないが、この写真もどうだろう。
古いパチンコ台が並んだ写真だが、
埃っぽさにも似た空気感を捉えることができていると私は思っている。


この、ふたつの写真から読み取ったことを話そう。

恐らくだが、このボケの諧調の自然さが、
イカの「空気を写す」神髄なのではないかと考える。

表現が難しいが、なんというか
水中から水面を見上げた時のような幻想的な大きなボケが写るのではなく、
至って自然に、無段階のグラデーションでボケ量が多くなっていくように感じる。

きっとこれを読んでいる今、あなたの目はスマートフォンやPCの画面にはピントが合っていて、
それ以外の景色はボケていて、それは奥に行けば行くほど、緩やかにボケ量が多くなっているはずだ。
目線をこの記事から逸らさずに、それを意識してもらえると、きっとわかる。
この仕組みが当たり前すぎて私たちはすっかり無意識になっているはずだ。

きっとライカは、このボケのチューニングが抜群に上手いのだろう。
他社に比べ、このボケのグラデーションが肉眼の見え方に近いのではないか。
それがこの空気感の正体なのではないだろうか。

ソニーニコン富士フィルムなど、他社のメーカーが
イカの写りを表現できないのは、この差ではないだろうか。
まあ別に、これも個性だと思うので、
他社にできないのではなく、別に”しない”のだと思うことにする。
私のライカだって、
富士フィルムのように、嬉しくなるような青を写すことはできない。
でも、それでいい。



いかがだっただろうか。
空気が写るライカ。そう言われてきた理由について、少し考えが深まっただろうか。

ちなみに、ここまで力説をしてきた私はライカのレンズを持っていない。
国産レンズのフォクトレンダーを愛用している。マジでいいぞ。

そして、往年の木村伊兵衛氏が「ライカは空気を写す」と言ったのは、

厳密には「ライカのレンズは空気も写す」と言ったらしい。

つまり、私のこの記事は徹頭徹尾、思い込みだったのかもしれない。

しかしながら、本当にレンズのみの力だろうか、とも疑問になる。
例えばライカのレンズをSONYのα系のフルサイズ機にマウントして
写真を撮っている人の作品を見ても、私が今日話した空気というものは
写っていないような気がする。
好みの差もあるだろうが、本当にそれだけだろうか。

ちなみに、モノクロ写真しか撮れないM型ライカも存在する。
それはそもそもイメージセンサーがモノクロで撮る用に作られているらしい。
モノクロなのにカラーのような、凄まじい画を吐き出すと評価されており、
高い支持を得ている。コブクロとかも絶賛してた。
きっと、モノクロモードで撮るのとは根本的に違うのだろうな。
イカがセンサーを作る時点で描写の追い込みができることを考えると、
ボケ感をチューニングすることだって、きっとできるはずだ。
だから、ライカのレンズだけの話ではないはずだろう。

国産レンズかよ!と人は私の経済力の無さを笑うかもしれないが、
スナップをしているとたまに空気も写しているような写真に出会えると思っている。



これは、認知症によって私のことをすっかり忘れてしまった祖母の写真だ。
後にも先にも、これを超えるような写真は出てこないのかもしれないと、時々怖くなる。
怖くなるけれど、いろいろな思い出がフラッシュバックしてくれる。

私はこのTYP240の恋に落ちるような描写が唯一無二だと思っている。
いくら加工で再現ができようと、それは自分の意志が介在していて、
カメラそのものが計算して吐き出した答えの芸術性ではないのだと思う。

もちろん、各々感じたように、好きなように写真を楽しめばよいと思う。
RAWで撮って作品として写真の完成度を上げようが、
JPEGで撮ってありのままをカメラにゆだねようが、
スマートフォンアゴをゴリゴリに削った写真を撮ろうが、
古いデジカメで平成初期のようなノスタルジーを感じる写真を撮ろうが、
自分が「良い」と感じたものを信じることが一番大切だと思う。

私はこれからも、もっと自分と対話しながら写真を撮っていく。