歓喜天倶楽部

歓喜天倶楽部

日本一多趣味のテキストライター篠野が魅せる。日本一多趣味なブログ。

結婚式に行った。




さて、先日の話だが、
私は友人の結婚式に参加した。

そして、私が感じたこととか、そういうものを、冷めやらぬうちに
したためておこうと思ったので、これを書いている。

祝福の場であったし、私含め、私の友人たちや参列したゲストも皆、
似たような心になっていると一方的に思い込み、
私はできるだけ素直で、綺麗な言葉で記録しておきたい。
きっと読みにくい文章になると思うが、それでもいいかな。

そういう気持ちになっている。

だからまあ、詩を朗読するような雰囲気になるかもしれないが、
その時は
"ド素人のこそばゆい純文学同人誌"
程度に受け止めてほしいものである。


時々うすら寒いギャグで自分の照れを隠すだろう。
きっと、何を言いたいのかが纏まらず、延々と語る部分も多くある。

だけど、思ったまま、赴くままに、
そういう言葉の紡ぎ方を、きっとする。

そういう気分だ。



~~~~~~~~~~~~~~~~~


そもそも、私は誰かの結婚式に参加した経験がなかった。

自分の結婚式といえば聞こえはいいが、
披露パーティという名を冠し
友人だけを集めたイベントを企画したことがあった。

嫁のご両親が当時体調不良で出席が困難だったことから、
私も両親をその場に誘うことを辞め、
互いに友人だけを呼ぶ形となった。

要は少人数用の披露宴プランみたいなものだ。
これまでの人生において転居を繰り返し、
ほとんどの友人と疎遠になった私にとっては、
身の丈に合ったプランであった。

そこには、人生で一番楽しい時期だったと言える
大学時代の友人だけを呼んだ。

本当は、もっとたくさんの仲間を呼びたかったが、
小人数限定で、新郎側と新婦側で
数を合わせるために結果呼べなかった人もいる。

来てくれた人にはお礼を言いたいし、
来れなかった人にも会いたいし、
誘えなかった人には謝りたいし、会いたかった。
そういうイベントだった。


そして、そういう場面を
私が主導で作れたことが嬉しかった。

というのも、
恥ずかしながら私は、
私から何かを企画して誰かを誘う、
ということを殆どしてこなかった。

なんとなく人を誘うのが苦手だったし。
何なら今でも抵抗感がある。



当たり前のことを格言っぽく言おう。

「誰かを誘うということは、その人を求めていることと同義だ」

と私は思っている。

だから「誘う」というのは私の一方的な欲求だと思っている。
それもあって、迷惑だったらどうしようとか怖がる傾向にある。
そして何より照れ臭いんだろうな。
求めていると思われるのが小恥ずかしいのかもしれない。
だから未だに苦手だ。
何かを求めるのは苦手だ。

私から誘ってサシで飲みに行った人とか居るのだろうか?
本当に居ないんじゃないか?

だから、私に
「何かしようぜ」
と誘われた経験のある人は
間違いなくレアキャラだ。
多分、世界に3枚くらいしか存在しないレアカードくらいレアだ。
是非街じゅうで踊りながら自慢してほしい。

私が開いたパーティは、結果的に
たくさんの友人が参加してくれて、
めちゃくちゃ嬉しい思いをした。

「思ったより嫌われてないのかな…」とか勝手に安心した。


身の上話が過ぎたが、要は
自分で企画したものに気心知れた友人を何人か誘う
という経験が、恥ずかしながらその披露パーティが初であった。


とまあこんな感じで、
結婚式(に近しいイベント)に人を呼ぶ経験はしたが、
結婚式に呼ばれるのはこれが初めてだった。



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私の友人関係を知らない人に概要を説明しておくと、

今回呼ばれた結婚式は、
新郎も新婦も、同じ大学時代の友人だ。

なので、私はどっちに呼ばれたのか分からない。

どっちにも呼ばれたと勝手に思っておくことにする。
(席次表を確認したら思いっきり新郎側ゲストだった)


彼ら新郎新婦は大学時代からずっと付き合っていたカップルだ。


大学時代は彼らともバンドを組んで、
大学のやっっすいプレハブのスタジオを
爆音で揺らした記憶がなんだかんだ一番色濃い。


あの時の高揚感を思い出しては、今になって

「爆音はそのうち癌に効くようになる…」

とか思っている私は、
そこそこ過去に囚われて生きているのかもしれない。


卒業後も年に一回くらいは集まった。
今でもそれくらいのペースだ。
私はクソデカい隣県に引っ越したこともあり、ほとんど年に一回だ。





ここはブログなので、パーソナルな思い出話をするつもりは毛頭ないのだが、
私が彼らに抱いた感情をより細かく感じ取ってもらうため、
もう少し彼らについて触れていく。




まず、新郎とは入学して同じクラスだった。
まあ同じクラスだから仲良くしていたというよりも、
同じサークルの仲間になったから仲良くなった。

私の大学生活は、


サークル仲間との交流>超えられない壁>大学生活


という構成になっている。

これが
「大学時代の友人が一番好きだ」と言えるようになった要因ならば、

私がこのサークルを選択できたことが大成功であったと思う。



もっと新郎について触れていく。
私が人生で初めてオリジナルの曲を作ったとき、
新郎とオリジナル曲を作っていくバンドを組んだ。

そこで発覚したことというか、認識したことがある。

新郎は、めちゃくちゃに凝り性だ。

私もそこそこ凝り性だと思っていたのだが、
それを凌駕するほどの凝り性だった。
バンド名を決めるのも、どういうデザインをするかも、
私と彼とで凝り勝負みたいになったのを覚えている。
特に絵を描くことに関しては私よりも一層のこだわりを見せていて、




凝り性を通り越して、ゴリ性だった。



…………




とまあ、
何かと物事の好みが似通っている部分があると感じていた。

もっと言えば、
私と彼は物事に対してロマンを感じる点が似ているのだ。


私が古着屋に彼を誘ったら彼を古着の虜にさせることができるだろう。


感性が似ているからだ。


さらに、物事の見方も似ている。と思っている。

何においても彼は中立の立場にいた気がする。

どちらかというと私は、中立というよりも、
事なかれ主義に近いのかもしれないが、

一度彼に問うてみたいことがある。

感情をニュートラルに入れている感覚、ないか?

どうだろうか?

しかもニュートラルにするまでの感情の経緯が
私には汲み取れる気がする。

彼の気さくな振る舞いに人一倍、親近感がある。

私の性格を勝手に重ねている。
それくらい似ている。

新郎側ゲストは、私が誘った時と同じように、
全て大学時代の友人という構成だった。
それも、なんていうか親近感が湧く。

やっぱり似た者同士だな…と思っている。

私が。勝手に。一方的に。

しかもそれがあながち的外れではないことを一方的に信じている。

いつか答え合わせができたらいいが、できなくても別にいいか。



~~~~~~~~~~~~~~~~~

新婦に関しては、なんというか、謝りたい気持ちがずっとある気がする。

友人を集めて私の家で宅飲みをすることが
私の下宿先の立地的に多くあったのだが、

当時、酒を飲んでいて酔っぱらっていたというのもあり、
その時に彼女(含む数人)に対して結構怒ったことがある。


そのとき多分酔っぱらった彼女が酒をどっかにこぼしたとか、
コップを割ったとか、そういう感じだったかもしれない。

にしても、
カラーボックスを踵落としで破壊されたり、
クラシックギターに穴が開いたりしたときも怒らなかった私が、
酒をどこかにこぼした程度のことでそんなに怒ったのだろうか。

いや、少しずつ思い出してきた。
だいぶ酔っぱらっていて、危ないから帰ろうよ、という流れになって
彼女がそれを駄々をこねたことに腹を立てた気がする。

「ここ、俺んちだろうが」と。
「危ないから帰ってほしいのに、なんで拒否するんだ」と。
多分そんな感じ。

結構情けないくらい怒鳴り散らかした記憶がある。
翌日声が枯れるくらい。
怒りの矛先としてコンクリートの壁を殴り続けた右手が
捻挫して翌日痣だらけになるくらい。


今となっては恥ずかしい出来事だった。
周りのみんなも私が正しいみたいな空気感で私をなだめてくれた。
だから私は、彼女に謝らなかったんじゃないかと思っている。
幸い、友人関係に亀裂が入ったというわけでもないが、
この場を借りて謝りたい。ごめんね。



~~~~~~~~~~~~~~~~~

散々ダラダラと思っていることを垂れ流した挙句、
ここからが本題、この間の結婚式の話をしようと思う。



私は誰かの結婚式に参加したことがなかったから、
人の結婚式で泣く人の気持ちが理解できなかった。
しばらく会っていない友人に会える楽しみな機会だと思っていた。
こういうのに感動して泣いたりするのは
涙脆い傾向にある女性ゲストのイメージもあるし、
別に泣くこととかないんだろうなと、ぼんやりと思っていた。



三回泣いた。



一回は新婦がチャペルに入場するとき。
一回は新郎の父がスピーチで言葉を詰まらせたとき。
一回は披露宴の最後、新郎新婦が退場するとき。



めちゃくちゃ不覚だった。





でまあ、このブログの本題というか、これから話したいことは、

結婚式で、三回も泣いた理由を考えてみた。

というものなのだけれど。



俯瞰して考える部分と、そうではない部分が入り混じる。

物事をまったく冷静に分析できていない。
けれど、どこか本質を見抜いている感だけは醸し出していく。



~~~~~~~~~~~~~~~~~

結婚式は、卒業式に似ている。そう思った。

親にとってみれば、最愛の子が
巣立っていくことを意味する晴れ舞台であって。
卒業式のように、物理的な
別れを意味するものではないが、
実質的には別れのセレモニーでもある。

これからどう生きていくかが、
決定的に表明される場所だと思うからだ。

ただ、
卒業式で泣いたことなどなかった私が、
なぜ三度も泣いてしまったのか。

その理由として挙げられる要素がそれぞれあるからだ。

私はそれに涙した、と敢えて言いたい。

多分、似たようなタイミングで泣いた人も、
きっと言語化していないだけで、
同じ理由で心を動かされたはずだ。



まず最初に、なぜ新婦の入場時に泣いたのか考えた。

それは、多分、
誰かの人生最高の瞬間と言っていい場所に
立ち会えた喜びを感じたからだ。

それは他でもない二人が、
幸福を追い続けた先にあったもので、
二人の力で手にしたものであって。

その場所、その出来事がいかに幸福なものであるか、
いかに暖かいものであるかを目の当たりにしたからだ。

二人の衣装がその喜びを体現しているような。そんな感じ。






次に、新郎の父のスピーチで泣いた理由を考えた。

それは、スピーチをしながら言葉を詰まらせる新郎の父の姿が美しかったからだ。
外見ではなく、その心の美しさに感動した。

いや、親の愛に泣いたと言えばめちゃくちゃわかりやすいではないか。
私は、親の愛の美しさに感動した。

スピーチをしながら、父がこれまでの人生を振り返って話すという作業には、
何一つ曇りがない。

ひとつひとつ、大事にすくい上げるように話す作業は、
家族だからこそできることだ。
親の愛以外の何物でもないだろう。

すべてが掛け替えのないものであること、
親がどれほどに子を案じているものかを感じるものだった。

その思い出のひとつひとつを紙飛行機にして、
飛ばしていくような作業にも感じた。

寂しさのような、悲しさのようなものを感じた。



あとそういえば体重米を親に渡すのも、
メッセージ性強すぎて来るものがあった。



これらは、愛による二種類の純な感情を見ることができた感動だ。

フリッツ・クライスラー
「愛の喜び」と
「愛の悲しみ」という曲があるが、
どちらも美しい曲であるのは、多分これと似たような理由だろうなとか、
普段クラシックとか聞かないくせに、そんなことを思った。



最後に、新郎新婦が退場するときに泣いた理由についてだ。


これに関してはいろいろな要素があった。
いろいろな要素があったからこそ、一番感動したのかもしれない。

まずは、音楽。要は演出だ。

なんにせよ選曲がニクイほど良かった。
伝わる人には伝わるだろうが、
水曜どうでしょう」の(当時の)最終回、
ベトナム縦断を達成した後のエンドロールで流れたあの曲を使ってきやがった。

私も一端の曲作り人として、
日本語の行間や暗喩が持つ美しさに関しては
少しだけ理解があると思っているし、
曲調やメロディーがどんな印象を持たせるのかの傾向くらいは頭に入っているつもりだが、


もう面白いくらいにその選曲が私の感情を駆り立てた。

実際に「水どう」を全て見て、最終回のエンドロールを見た人からすれば
想像するに容易な感情かもしれないが、

これまでの楽しかった出来事を思い返すような、
もうあの頃には戻れない寂しさのような、
それでも、前を向いて笑っていくんだ、と歩き出すような曲だ。


それがクリーンヒットしたのだ。私に。
もはやクリーンヒットというかシンデレラフィット。
ガラスの靴、履きました。


これまでの喜びとか悲しみとか、
愛とか、寂しさとか、そういうのを、
全て抱きかかえて走り出すような。

なんとも、彼ららしかった。


あの曲をあのタイミングで聞けて、
なんというか、勝手に安心した。

確実に、誰が何と言おうとも、
二人だけで幸せになれるのだろうなと思った。


それが音楽による演出だとしても、
私と彼らのこれまでのことを
結局その曲に合わせて重ね合わせることとなり、
感極まってしまった。
オタク的に言えば、感涙不可避wだ。


あと、私の隣に座っていた同じテーブルで同じサークルの友人が
そこで一番泣いていたのを見て加速度的に泣いてしまった。

もらい泣きというよりも、「泣き+加速もらい」だ。



~~~~~~~~~~~~~~~~~

結婚式というのは、
人の心の温かさとか、愛とか、純な心とか、
そういうものに触れられる機会なのだと知った。


当たり前なのかもしれない。
そもそも、彼らを祝うために集まったわけで。

彼ら二人だけではなく、
これまでの良い記憶、悪い記憶、
喜び、切なさ、寂しさ、心の美しさ、
すべてが祝福されるイベントなのだと思った。

無論、我々参加したゲストも、
一人ひとり、新郎新婦との間にあるそれらを祝福できる場なのだ。


祝福しているようで、祝福もされている感覚があるから、
最終的に私たちも「なんだか嬉しい」のだろう。

結婚式というのは、そういう場なんだと思った。

結婚式、したほうが良い派としなくても良い派に分かれるみたいなテーマがあるが、

結論、結婚式をすると"したほうが良い派"になる。

金を掛けた手前「損した」とは言えない、みたいな理由以外にも、

先に私が考えて述べた要素もあって、
私は”結婚式したほうが良い派”になった。





おっと、今思い出してさらに温かい気持ちになったことがある。

私が主催した披露パーティで、
女性ゲストを集めてブーケプルズを行った。
ブーケブプルズとは、ブーケに1本だけ紐がついている、
端的に言えばくじ引き形式のブーケトスみたいなものだ。

そのブーケを貰ったの、
そういえば、今回の新婦だったはずだ。

まあそろそろ結婚するという話を聞いていたので

「当選確実の奴にブーケ渡しちゃったよ」

とか言って笑った記憶がある。


そして先日、私は彼らの結婚式に参加した。

それが直接関係しているかどうかは置いておいて、
なんとなく伏線回収をした気分だ。

私が開いた、ああいう披露パーティも、
彼らが「結婚式やるか…!」と踏み切る
きっかけの一つになったんじゃないかと思っている。

昨今は無理に結婚式は開かない人も多いし、
考え方は多様化していく中で、

どんな形であろうが、
形がそもそもあろうが無かろうが、
本質さえ見失わなければ幸福なのだ

みたいな価値観が広がりつつある。


そんな中で彼らが結婚式を挙げることを踏み切ったことも、
その一端を担えたかもしれないことも、
私にこういう考えを与えてくれたことも、
いろいろな形の思いを目の当たりにできたことも、
そしてそれらすべてが
祝福のもとにあると思うと、



なんというか、いとおしい気持ちになった。




とにかく、おめでとう。